2005年11月02日

生きる

プロゴルファー尾崎将司選手、東京地裁に民事再生手続きを申し立て。
個人として経済的に破綻したのを受けて。

こんなニュースが飛び込んできました。
こういう時、人は何を思うんでしょうか?

ざまぁみろ
あんなに稼いだのに借金で首が回らないなんてただのバカ
自分じゃなくて良かった…etc.

私はその人の精神に関心が飛びます。
今、尾崎将司は何を思っているのかな?
そしてこれから何をしようとしているのかな? と。

悲しいことですが、人間は一定の割合で不幸に襲われます。
10人に1人なのか、100人に1人なのか、1000人に1人なのか…

そしてそれが事故なのか、病気なのか、経済的破綻なのか、いずれにせよその道は絶望の淵へと続いていることでしょう。
一旦崩れ始めた運命は、下り坂を行くかのように、もはや止めようはありません。
自分の力ではどうしようもないことが、間違いなくこの世には存在すると思います。

あなたはどうやって日本に生まれてきたんですか?
今戦争の渦中にあるイラクではなく、この日本に…
自分の努力で日本に生まれました、という人はいますか?

人生の幸不幸の振幅もまた、万人が同じではないと思います。
映画世界の中心で愛を叫ぶ』にしても、映画と同様に恋人と死別した経験を持つ人はどれくらいいるのでしょうか。
恋人に振られたことと死別したこと。
心の振幅、幸不幸の振幅は同じですか?
生きていれば、もしかしたらまた同じ道を歩く可能性が存在しますが、死んではありえません。

「生きる」=「可能性」なのでしょうか。
全ての可能性を奪われること、つまりそれが「死」なのでしょうか?
人間は自分に可能性がなくなった時、死ぬのでしょうか?

時には病によって可能性が奪われたり
時には自らの精神によって可能性を奪われたり
時には自らの力が及ばない何かの働きによって可能性を奪われたり

宮沢賢治は結核で亡くなり
三島由紀夫は割腹自殺により亡くなり
戦争によって多くの人々が志半ばにして亡くなり


人間っていい時は何事も簡単に事が運びます。
でも一旦流れが変わった時、それをいかに止めるのか。
そこにその人の人間性や人格が現れるのでしょう。

だからこそ、大きな苦難のなかに生きる人達こそ、尊敬せずにはいられません。
なぜなら自分には出来ない事ですから。

ジャンボ尾崎はどんな生き方を見せてくれるのでしょうか。
プロゴルファーとして、人間として、どんな可能性を見せてくれるのでしょうか。
そんな部分に興味を引かれながら、このニュースをチェックしてしまいました。


今後の人生で私自身に苦難が迫ってきた時は、斜めに構えて卑屈になるのではなく、正面から堂々と受け止められるくらいの人間でありたいと思っています。

そしてどういう形になるのか分かりませんが、私が人生と言う劇場を退場する時には、背筋を伸ばし真っ直ぐ前を向いて歩みたい。


人間は自分に可能性がなくなった時、死ぬんでしょうか?

いや、そんな単純な話ではないですよね、死ぬも生きるも。
ただ、「死」を見つめれば見つめるほど「生」について考えさせられ、
「生」について考えれば考えるほど「死」について考えさせられます。
「生」も「死」も、一見違うもののように見えて、実は同じところに通じている、もしくは表裏一体で実は同じものかもしれないと私は思っています。
でもその2つが通じている先、もしくはその2つが接しているところに何があるのかが分からないんです。

今日の日記のタイトルは、黒澤明『生きる』から戴きました。
「生」と「死」を考えさせられる最高の映画だと思います。
posted by ためしっと at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ちょっとまじめな話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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